ウォーリーの口から出まかせ
「50秒、、、、1、2、3、4、」
秒読みの声だけが会場に静かに響いていた。
将棋の事などまったく分からない私だが「その時」が近いことだけは分かった。
今やネットで将棋中継が見られる時代となった。ニコ生のコンテンツの中でも「将棋」は人気コンテンツのひとつである。
普段から見ているわけではないがこの時はなぜか画面に目を奪われていた。
私が見始めた時にはもう大勢は決していたのかもしれない。
解説の人も次第に口数が少なくっていて「その時」を待っているかのようだった。
一度天を見上げて擦れるような声で投了を告げた。
なぜかこの時の対局が忘れられなくて調べてみた。
敗れた男の名前は「木村一基」
43歳にして初タイトル獲得がかかった対局だった。
もし勝てばタイトル初獲得史上最年長記録となる。
対戦相手はあの天才「羽生善治」
奇しくも羽生が初めてタイトルを取ったのは17歳の時である。
「将棋の女神は晩成よりも早熟を好む」と言われている。
若いうちから芽が出なければダメな世界なのである。
木村は今回が6度目のタイトル挑戦となる。
過去3連勝してから4連敗での敗退も経験している。
今回も先に3勝して王手をかけたのは木村。
だがそこに立ちふさがったのはまたしてもあの男。
「あと一局」これがあまりにも遠いのだ。
対局が終わった後記者のインタビューに対して声を震わせる場面もあった。
挑戦者としてこの場に座ること自体かなり難しい。
毎回「今回が最後の挑戦になるかもしれない」と思って挑んでいると語っていた。
調べてみて分かった事なのだが、記者からのインタビューの後対局者は
大盤解説場に向かいファンに向かって挨拶するのが慣習になっている。
対局直後でお互い疲弊しきっているので軽くコメントして終わるのが
通例なのだがこの時は「せっかくですから」と木村が直々に今回の対局を
振り返り具体的な解説を始めたのだ。
途中、機材トラブルでマイクが使えなくなってしまった。
すると木村は交換を求めるでもなく肉声で解説を続けた。
追い求めていた場所にまたしても届かなかった対局の事を、そして自身の敗着を
自ら大声で語ろうとしたのだ。
自分の将棋を最後まで見届けてくれたファンのために。
敗れた者の姿は美しかった。
「勝ち」と「負け」の絶対的な二元論でしか語られない、単純で残酷な世界に生きる彼らの事をうらやましく思った。
作者 杉江和哉